HISTORY

山長の歴史

1991年〜平成3年

製材からプレカットへ

為替の円高が進み、カナダからの現地挽き製品が大量に入荷しだし、競争が激化して、高い米材原木を田辺に輸入して、製材して東京に送るというビジネスモデルは通用しなくなった。恒常的な原木高の製品安で不採算となり、一社、また一社と製材から撤退して行った。平成9年(1997)山長商店は米材製材を縮小し、継続していた国産材製材をベースにプレカットに進出することで、活路を見出した。当時30%程度のプレカット率であったが、その後プレカットは年々増加し、木材流通の要として在来木造建築の合理化に大きな役割を担うこととなった。その中で山長プレカットは、工務店を通じ住まい手のニーズに直接触れることにより、一貫生産体制による紀州材を生かすプレカットを目指す方向に舵を切った。

山長商店外観

プレカット製品
機械で作成されるためオスホゾ、メスホゾ共に丸みがある。建築順に合わせて整理され、梱包される。

1990年(平成2年)

榎本光男 代表取締役に就任。

1996年(平成8年)

榎本長治 代表取締役に就任。

1997年(平成9年)

プレカット工場を建設、操業開始。

プレカット工場の竣工を伝える「木材新聞平成9年4月30日付」(紀州田辺木材史より)

2001年(平成13年)

米材製材から撤退し、プレカット工場を増設し転換する。
これにより山から製材、プレカットと紀州材一貫生産体制ができる。

皮剥ぎされた丸太

丸太の性質を見極めた上で職人が製材

機械メーカーと共同開発した日本初のタイコ梁加工機

東京方面への配送は大型トラックで輸送

榎本光男

大正14年、新庄村(現新庄町)生まれ。戦後の昭和25年から家業の木材業に携わる。昭和27年に長兄(長平)と共に(株)山長商店を創立し、専務取締役に就任。社長の右腕として経営を支えてきた。
昭和32年からは製材業にも着手し、以降、製材分野を広く手がける。平成2年には社長に就任。現在は同社相談役。波乱多き近代木材業界を見続け、紀州材、外材ともに詳しい。そのキャリアから、木材業界後継者のさまざまな相談を受けていた。
紀州田辺木材史の編纂委員長を務め、その発行に寄与する。

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