HISTORY

山長の歴史

1965年〜昭和43年

国産材から外材へ

昭和27年(1952)ごろから経済の高度成長による建築材の需要増大に国産材の生産が追いつかず、木材価格は上昇し続けた。柱角の旺盛な需要にもかかわらず、原木不足に悩んでいた田辺の製材業界は、昭和36年(1961)以降米材への大転換を推し進めた。商社を通じて大量に輸入された米材(米栂、米松)を製材し、東京市場へ販売する一大産地となった。
山長商店も米材専用工場を建設しその一翼を担ったが、自前の山林を所有していたため、国産材製材部門を継続した。1970年代米材は最盛期を迎えたが、80年代に入ると他産地との競合やカナダの現地挽きとの競合により、田辺の米材業界に陰りが見えてきた。

昭和45年ごろの文里港(紀州田辺木材史より)

初期の外材の皮剥ぎは手作業であった(紀州田辺木材史より)

文里湾の外材(紀州田辺木材史より)

1968年(昭和43年)

米材専門工場を建設、操業開始。
JAS格付制度実施、認定工業となる。

1972年(昭和47年)

紀和木材株式会社設立。(現モック株式会社)

1976年(昭和51年)

榎本長平 県木連会長に就任。

田辺港に入港した外材船「花光丸」(紀州田辺木材史より)

船に積み込まれる米マツ(紀州田辺木材史より)

昭和44年 常陸宮ご夫妻が来訪される。山長商店外材工場(紀州田辺木材史より)

田辺港と製材工場一覧図「日刊木材新聞」昭和44年9月25日付から(紀州田辺木材史より)

昭和56年2月 田辺木材会館記念写真(紀州田辺木材史より)

初期の外材工場(紀州田辺木材史より)

ツインバンド テーブル2台で左右両側同時に製材できた(紀州田辺木材史より)

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