HISTORY

山長の歴史

1952年〜昭和32年

紀州材の銘柄化

戦後、復興期を終えた日本経済は、何回かの不況期を挟みながらも、波状的に好景気を迎え、成長期を迎えていた。建築材の需要増大に国産材の生産が追い付かず、木材価格は上昇し続けた。田辺の製材業界も競って山を買い、製材し首都圏へ販売した。製材業は地場産業の中核となった。山長も昭和21年(1946)第一製材所に資本参加し、その後、榎本長平、光男の兄弟は㈲山長商店を設立、2年後株式会社化し、他工場を買収し製材業に参入、昭和33年(1958)本格的に国産材製材工場を建設し製材業に取り組んだ。自社林や買い山から出材される紀州材を製材し、機帆船で東京へ大量に運び、紀州材問屋に販売された。山長商店の製品はその品質の良さで、木場で名を挙げた。一方傳治と長平は、燃料革命により将来無価値となると見た薪炭林を、スギヒノキに植え替える大規模な拡大造林に取り組み、昭和26年(1951)年から20年間に亘り1000万本を植林した。

昭和35年チリ津波に関連して、津波対策会議が行われた。
左から榎本長平氏。板書しているのは中田増一郎氏、中央は細尾孫市氏(紀州田辺木材史より)

山長商店のフォークリフト 昭和33年ごろ(紀州田辺木材史より)

1952年(昭和27年)

株式会社山長商店を設立。
榎本長平 社長就任。

1958年(昭和33年)

国産材製材工場を建設し製材業を経営。

1961年(昭和36年)

国産材製材工場を継承するからたわら米材製材を始める。

1962年(昭和37年)

榎本長平 木協理事長に就任。

榎本長平

大正5年、新庄村(現新庄町)生まれ。田辺木材協同組合の4代目理事長。在職任期が22年と最も長かった。「率直に怒れる人が羨ましい」と語ったといわれる程、怒ることとは無縁な人であった。理性的で辛抱強い性格と、その優れた調停能力によって数々の紛争や揉め事を解決してきた。昭和27年には、家業の中から木材部門を分離独立し法人化させ、(株)山長商店を設立した。その後も、製材工場、砕石工場、不動産と系列会社を設立し、積極的に事業拡大に手腕を発揮した。昭和51年からは、和歌山県木材協同組合連合会会長、同59年から田辺商工会議所会頭を歴任し、木材業界のリーダーから地域のリーダーとして活躍の場を広げた。
美術と酒、歌を深く愛し、3冊持ち歩いていた手帳の1冊には、歌の題名と歌詞がびっしりと書き込まれていたという。昭和63年、勲四等瑞宝章授章。

文里湾の風景 昭和30年頃(紀州田辺木材史より)

腹押し(左)と前取り(右)箱当ての3人が1組となっている(紀州田辺木材史より)

伐採現場 昭和30年頃三川村(現大塔村)(紀州田辺木材史より)

架線土場 昭和30年頃本宮町(紀州田辺木材史より)

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