HISTORY
山長の歴史
1938年〜昭和13年
成長と近代化
明治維新を経て林業政策は大きく変わった。藩政時代の保護管理政策から自由化政策への転換である。製材工業は、木挽から機械製材への転換期を迎える。
天然林が生い茂る紀南各地の山々では、明治中ごろから原料立地型の山元製材工場が次々と出現した。上流の原木や製品は河川を使って流送され、新宮、古座、日置、御坊などの川口の町は、木材集散地として栄えた。やがてこれらの町にも機械製材工場が出現した。
田辺の木材界の指導者たち 昭和16年ごろ奈良県橿原神宮にて(紀州田辺木材史より/前列左 榎本傳治)
木炭を積んだ荷車(紀州田辺木材史より)
新庄村山長商店で 昭和10年ごろ
1938年(昭和13年)
9代榎本長平が和歌山高商を卒業し、家業に入る。
以降、木材及び製材品の販売を行う。
1950年(昭和25年)
有限会社山長商店を設立。
榎本長平 社長就任
伐採した素材を賃挽きさせて販売する。
木馬道 木馬に積まれた原木(紀州田辺木材史より)
修羅 木が滑りやすいように中央部を凹型にしている(紀州田辺木材史より)
山林収利簿
明治後期ごろ
西ン谷(龍神村)山林収利簿
明治後期ごろ
ジャバラ鋸
丸太を横切りするため製材所の土場で使われていた往復曳きの歯。二人で操作していた(紀州田辺木材史より)
16HPヤンマーディーゼル
昭和20年代に使われていた集積用架線動力(紀州田辺木材史より)
昭和8年の文里湾
対岸は索道事務所と文里製材所(紀州田辺木材史より)